こんにゃくゼリー事故について雑感

 究極的には、「死を遠ざけた結果」だと思っている。

 「誰かのせい」という意見にはくみしない。マンナン社のせいでないのは
当然だが
 、かといって「保護者のせい」というような議論もしたくない。というか、今問うべきなのは

 「誰かのせいにする」→「犯人をでっちあげる」→再起不能レベルまで徹底的に叩く→忘れる→また事故再発

 こういうどうしようもなく不毛なサイクルがあり、そのサイクルに「乗らないためにはどうするべきか」ってことを、各個人がちょっとずつでも考えていくことが重要なのではないかと思う。

 以下、単なる雑記。

 http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/081001_6.htm
兵庫県男児こんにゃく入りゼリーをのどに詰まらせて死亡した事故を受けて、三重県伊勢市学童保育所で昨年3月にゼリーをのどに詰まらせて窒息死した小学1年の村田龍之介君(当時7歳)の母由佳さん(47)は「事故を防ぐために、すべてのメーカーのこんにゃくゼリー製造販売を禁止すべき」とコメントを発表した。

 この記事を読んで思うのは、結論からいえば

 子供が死なない、と思ってないか?

 ということ。いや、率直にいってそれ以外の感想はない。こんにゃくゼリーの危険性というものは十分に周知されており、いや「十分」という形容詞がわきが甘いとすれば「少なくとも親ですらない自分にすら(危険性は)浸透している」程度のことは言えるし、だいいち決して小さくないフォントで年寄り・子供に与えるな、という表示はしてあるわけで。

 それにも関わらず与える、というのは、「子供が死なない」と思っているからとしか考えられない。つまり、こんにゃくゼリーによって起こった事故と、目の前でヨダレを垂らしている子供が赤黒い顔して窒息することがリンクできない。繋げない。なぜなら「この子が死ぬはずない」と思っているから。

 そんなはずないって? いやいや、そうじゃないとこんにゃくゼリーを与えませんよ。他におやつはたくさんあるわけだし、その中からわざわざこんにゃくゼリーを選んだわけだし。「こんにゃくゼリーの事故が起きているけれど、この子が詰まらせて死ぬはずはない」と考えてないと与えないでしょう。

 で、話は冒頭に戻って。「だから保護者が悪い」という議論はするべきではないと思っている。単純に、子供を亡くした親を叩くなんて鬼畜じみた真似は自分にはできないから。そしてそれ以上に、「そうした親」を作り出したのは、「これまでの社会」の結果だと考えるから。

 まったく関係ない事件で恐縮だが、最近個室ビデオ店に放火し、15人が亡くなる事件があったが、その犯人は

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/081007/crm0810072319033-n1.htm
 小川容疑者が「15人も死ぬとは思わなかったし、そんなに客がいるとは思わなかった」と話したことを明らかにしたうえで、改めて殺意を否定した。

 ということを述べている。まあ供述段階のことなので確たることはいえないにしても、「自分の行動」と「死」が結びついていない、という点が印象に残った。

 あるいは秋葉原殺傷事件の加藤容疑者についてもそうだが、彼はあれほどまでに短時間で数多くの殺戮をやってのけながら、その詳細についてほとんど覚えていないという。

 何らかの圧力が加わって正常な判断ができなくなった結果の犯行だが、特徴的なこととしては「殺めた」ということに対する呵責の念が希薄であること。ここでも「自分の行動」と「死」が結びついていない。

 これらのこと。加害者と被害者という絶望的な立ち位置の違いにも関わらず、共通する部分を見出せないだろうか。自分は完全に「根は同じ」だとさえ思っている。「根」とはつまり、「死を遠ざけている」ことだ。

 そういう意味で、今回の事故はまさしく「事故」なのであって、誰かが悪いというものではない。誰かが悪い、例えば「子供が死ぬかもしれない、と考えなかった親御さんが悪い」とするならば、「では自分は常日頃死について考えているのか?」と問うだろう。そして、その問答が不毛であることをすぐに悟るだろう。

 むろん、上記リンク先にあるような発言が批判されることは避けられまい。それについて自分はとやかく言わない、というだけだ。それよりも、これをきっかけに、少しでも「健全な死生観の醸成について」という議論ができればと思うのだが、それはそれで別枠で議論すべきことなのかもしれず。

 以上、単なる雑感。