横山秀夫『クライマーズ・ハイ』

 すさまじい作品だった。

 深夜1時に読みだしたのがいけなかった。内容以前に、その“構造"の充実ぶりに圧倒された。冗長さ、迂遠な表現、著者の独りよがりのような描写が皆無で、重厚な骨組の上に吟味しつくされた上等な肉が載せられている。

 素材の吟味に、著者は1985年から2002年までの17年の歳月を費やした。17年間かけて煮込まれたスープの濃厚さ、繊細さたるや、くどくど説明するのがもどかしいほど。463ページのボリュームがあったが、気がついたら朝5時まで掛かって読み切ってしまった。

 コンテクストの多さと太さとが尋常ではない。『世界最大の航空機事故』『大久保・あさま山荘事件』『社内抗争』『男の嫉妬』『遺族感情』『自殺せしめた部下への負い目』『「下りるために登るんさ」と言い残して昏睡状態に陥った安西』『新聞社という特殊な組織』『新聞社というどこにでもある組織』『地元紙の存在意義とは』『新聞の存在意義とは』『父親とは何か』etc. 

 これらのコンテクストのすべてを、横山秀夫は丹念にアクをすくい、極めて純度の高い物語として構築しきっている。1985年8月の熱波が押し寄せるようだった。北関新聞の編集部の大部屋、記者たちの喧騒と低い天井、煙草の煙でくすんだ壁、記者・デスク・局長・幹部らの交錯する思惑、その中心で葛藤し煩悶しながら格闘する悠木の姿が、手に取るように分かった。

 あとがきにもあったが、これほどの作品は「一生に一度しか書けない」類のものだと思う。金子達仁『28年目のハーフタイム』などはその典型で、優秀な(少なくともその時点では)記者が、時代が音を立てて変わりゆく瞬間を、その優れた嗅覚でかぎとり、自らの足と頭とペンと、これまでの人生をすべて集約して打ちこんだ結果生まれた作品だった。

 その後の金子が『28年目〜』の域に達した作品を一つもものしていないことから分かるように、そうした作品を産んだ作家は概して「枯れる」ものだろう。それほどの作品をものすというのは、ライターあるいは男性における出産に等しい。「男性は陣痛のいたみに耐えられない」という話を聞くが、彼らは耐えて出産した。その揺り返しが来ても、何の不思議もない。

 そういう意味では、横山秀夫自身も尋常なライターではない。『クライマーズ・〜』に及ぶレベルかは置くとしても、著者は何本も傑作を書いている。その健筆の足腰を支えているのは、『クライマーズ・〜』の原案となった上毛新聞社時代の経験なのだろう。御巣鷹山は、著者にとって幕末動乱に匹敵するものだったに違いない。

 読んでいて感じたのは、明確な嫉妬だった。プロフェッショナルの仕事とは、こういうものだということを痛感したからだ。

 自分が『クライマーズ・〜』に匹敵する仕事をすることができるか。今後の人生に、一つの大きなテーマを得た気がした。自分にとってこの作品は、そういうものだった。