5/11 凛として時雨ライブレビュー

http://namikijunction.com/?item=calendar&seq=detail&ref1=2008_05&ref2=0511a
■日時
 2008年5月11日(SUN) OPEN18:00 START18:30
■場所
 広島ナミキジャンクション

 静と動。超高速で打ち鳴らされるハイハットがノイズのようにジャッ! とミュートする瞬間、ギターとベースが寸分の狂いもなくシンクロする“静”。熱気が充満するライブハウスに一瞬できた間隙、そこに流れ込んだ意識が、爆音とともに一気に解き放たれるカタルシスの“動”。

 あるいは狂気と正気。パフォーマンスだけみれば“狂気”が漲っているのに、MCを開始したとたんそれまでがなんだったんだと思えるぐらいに“正気”だったりする。

 凛として時雨は、「目的のために手段を選ばない」バンドだと理解した。
 彼らの目的は「狂気を載せて破壊を奏でる」ことだと思う。美しく壊れる世界と、それを見つめる精神薄弱なまなざし。「Sadistic」や「ナイフ」といった言葉が頻出することからも分かるように、感じられるのは明確な殺意。それは日本においてはX JAPANLUNA SEA黒夢といったビジュアル系バンドが表現していた音楽に近い。

 だけど凛として時雨は、ビジュアルに頼らない。というより、そういう手段を取らない。フォーマットや歴史に対するこだわりを良い意味で捨て、メタルサウンドの純粋な破壊力だけを掬い取り、ギミックも化粧もなく、見た目的にはバンドマンにすら見えない「素の状態」で破壊のメロディを奏でる。ラップの破壊力だけをメタルサウンドに取り入れ、ザック・デ・ラ・ロチャという狂気のパフォーマーを擁し世界最強バンドになったRage against the machineのように。

 純粋に破壊力だけを研ぎ澄ました結果、化粧は単なる夾雑物であると判断した。のかどうかは知らない。が、X JAPANにせよLUNA SEAにせよDir en greyにせよ、ビジュアル系と呼ばれたバンドの多くが売れるにつれて化粧を取っていった。本来伝えたいことは、化粧という手段を選ばなくても伝わる。そしてX JAPANをルーツと公言する凛として時雨は、最初から化粧をしない方法を選んだのではないか。

「素の状態」から解き放たれる狂気。そこに、強烈なギャップが生まれる。そこらのメタルバンドが真っ青になるような、猛烈なテクニック。抜き身の冷たさを感じさせる高速アルペジオと、情緒不安定さ・悲しさ・弱さを内包する、神経をかき乱すようなTKのスクリーム。一打ごとに世界を壊していくような、異常な手数をたたき出すピエール中野のドラミング。バンドの骨太さを支えるベースと、絶妙なポップさを与える345のハイトーンボイス。

 ロックでメタルでポップでセカイ系で情緒不安定で、冷徹に激情をシャウトする。純粋な衝動を研ぎ澄ました結果、冷たく輝く日本刀のような、恐ろしく完成度の高いステージングを手にした。同時に、最低としか言いようのない下劣なシモネタで、パフォーマンスに置いてけぼりにされていた観客を、爆笑と共に「こちら側」に引き戻す。

 あれほどの完成度の高い演奏なら、ムリにMCを入れなくてもよいはず。むしろそのほうが、世界観の強度は高まる。しかし、入れる。最低最悪なシモネタを。ブンブンサテライツ中野の「いまはより記名性の高い音楽が求められている」という言葉を思い出す。

 凛として時雨は、完成度の高いステージを構築したあと、MCで「これは作り物ですよ」とばかりに一瞬で破壊する。手の内を明かす。聴衆の手の届かないバーチャルな存在に上り詰めることも可能なのに、あえてそこで「名づけうる何か」つまり「リアル」に戻ってくる。 そこにはオーディエンスを見捨てない、署名つき・顔写真つきでモノ・コトを表現するパフォーマーとしての責任が見える。単なる破壊でなく、そうした姿勢があるからこそ、彼らは確固たる寄る辺を持たないティーンに熱狂的に支持されるのだと思う。

 一つの形容詞で収まりきらない、ありきたりの言葉を拒絶する獰猛なパフォーマンス。しかしポップになること、メジャーになることを恐れない。凛として時雨において最もポップな“楽器”である345のボイスが炸裂する『Telecastic fake show』を用意したように、消費される準備を万端に整えていることも分かった。同時にそれは、彼らの持つ多面的な側面の一つをチラリと見せただけでもある。そこには、どう消費されても消費尽くせない、ゆるぎない芯を感じさせる。

 彼らの課題は「ハコが小さすぎる」ことだけ。スケール的にはZeppTOKYOは勿論、武道館だってアリーナクラスだって余裕でこなしてしまえるはず。こんな化け物バンドが埋もれていたとは。心底参った。