匿名の批判は人を育てるか?

 このブログは知り合いの文筆家や俳優、ミュージシャンなども読んでいるので、このテーマで思うことを。

■匿名の批判は人を育てるか?

 育てません。少なくとも、自分の場合は、ですが。
 以下、あくまで「自分の場合は」という但し書きつき。

 ブロードバンド普及以降ネット利用人口が爆発的に拡大したのが確か1999年ぐらい。僕のネット利用開始も1999年ですから、そこから9年経った。9年利用したというのは、それなりに色々なことが「経験則から」語れるようになったということで、喜ばしいことです。まあ、どうでもよいことでもありますが。

 ところでここでいう“匿名”は、厳密な定義論をものしたいわけではないので、「読み手から見てIDが把握できない」という程度のざっくりした意味合いで捉えてください。それ以外の、ある程度まとまった期間使用したHNなどを、僕は記名と匿名の中間である「半匿名」と呼んで区別しています。で、いまは匿名のお話。

 9年間ネットを利用し続けて思うのは、「匿名批判は自分を育てなかった」という、割と当たり前のことですかね。編集者/ライターとしてささやかな経験を積んで思うことですが、匿名批判から何かを学んだことは皆無に近いです。実名/半匿名の批判から得たものは「圧倒的に多い」にも関わらず。

 結局のところ、批判って「誰が言うか」だと思うんですよね。そこも9年間ネットをやり続けて思ったこと。匿名批判を読んでガーンとショックを受けたことなんてないけど、リアル世界で上司や先輩から言われた一言や、ブログで半匿名でやっている人から反論されたときに学んだことは【数多く】あります。

「『誰が言ったか』ではない、『何を言ったか』だ」というのは正論です。だけど、人間の心情においてはさほど役に立たない。それは批判というものが、相手への一定の信頼なしには受け入れにくいものだから、ではないか。そしてその信頼は、つまるところ「反論可能性が担保されているか」、に尽きる気がしています。

 端的に言えば、「そういう意味で書いたんじゃないよ」といえる可能性が、実名/半匿名ならゼロではないわけです。しかし相手が匿名の場合、そもそも反論を書き込んだところでその書き手が不在であったり、別のIDを取得して「別人」として振舞っていることが圧倒的に多い。だから事実上反論の可能性はない。

 反論とはコミュニケーションですから、反論不可能な状態はディスコミュニケーションです。一方的な言いっぱなしというのは、どんなに論として優れていようとも、心情的に受け入れがたい部分が残るんですよね。僕のような凡人は、特に。

 で。誰にとっても時間は有限。一方で、読むべき文章はネット・リアル含めて一生かかっても読みきれないほど膨大にある。その中で、自分に対して良い影響を与えない匿名批判を読む時間がどれほど有用か。コストパフォーマンスを考えても、実は匿名批判を読む必要性は薄い気がします。

 それよりは、文章なら「誰に読んでもらいたいか」をまずハッキリさせ、そのターゲットに見合った他者の中で信用にたる人物を見つけ、その人とちゃんとした関係を築いた方が良いでしょう。

 知り合いでも友人でも恋人でも家族でも構わないから、ちゃんと顔を持っている人、あるいはHNをある程度の期間使用し、少なくとも『書き逃げ』をしない程度の信用はできる人を見つける。そういう人たちに作品を見てもらう、聴いてもらう、読んでもらう、という風にしておけば、匿名の批判などに頼る必要性は全然ないと思います。

 9年前ぐらいと状況が違うのは、ある程度経験を積み、「そういうものだ」と分かったことですね。以前は「日常的に匿名批判にさらされる」経験なんてよっぽどの有名人しか積んでおらず、従って経験からモノを言うなんてことはできなかったですから。

 まあ、あくまで自分の経験則で、実際には「オレは匿名批判で育てられた」というタフな方もいると思います。が、まあそうタフな人ばかりじゃないと思うので、こういうことを書いてみました。

 結論は、匿名の批判者は必要ない。実名で批判してくれる他者を探せ、ってことで。