「つまらない」と書く必要は、ある。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080325/p1
>思うに、サイト読者のことを考えるなら、「つまらなかった」というだけの感想は必要ないと思うんですよね。だって、役に立たないから。役に立たない、とぼくは思っている。
(中略)
>そのようなとき、「つまらなかった」感想はどのように役に立つでしょうか? 仮にその意見が正しく、信頼できるものだったとしても、あまり役に立たないのではないでしょうか。

 なぜなら、「つまらない≒嫌い」は「好き」の一種だから。
 「好きの反対は無関心」なのだ。本当につまらないモノを目の当たりにしたとき、人はいちいちブログに書いたりしない。僕が多くのサッカーブログをアンテナから外したのも、「無関心になった」からだ(すべてがそうではなく、例えば『サッカー蟻地獄』は別のアンテナから毎日飛んでたりする)。

 「つまらない」⇒「ブログに書く」

 の間にはミゾがある。それも結構深いミゾが。そこを飛び越えるには「好悪の感情」が必要であり、そのエネルギーには何らかの根拠がある。

 これは映画の話になるが、僕が

 『大日本人』はクソ映画だ! 松本氏ね!

 と書いたとする。そこには「つまらない≒嫌い」、つまり「好きの一種」の感情がある。考えてみれば分かる。松本人志というコメディアンに何らかの期待をしていたからこそ、僕はシネコンまでわざわざ足を運び、新書なら3冊は購入できる1800円というお金を支払ってチケットを買い、アルバムなら2枚は聞ける2時間という時間を費やしたのだ。無関心な相手には、こういうことは絶対にしない。

 「つまらない≒嫌い」と書くことは、「期待を裏切られたから」なのだ。だから「嫌い」と書くことは、一種の告白と捉えることができる。

 毎日回覧するブロガーの、感情のエッジが表出する「嫌い」の文脈は、それだけで読む価値がある。もちろん読んだ結果「やっぱり読むんじゃなかった」となることはあるだろう。だが、「この人はこういう基準でモノ・コトを嫌うのだ」という情報を得ることはできる。それが尊敬する人物の株を下げることもあれば、その逆もあるわけだ。なので、

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080325/p1
>個人サイトで「つまらなかった」と書く必要はない。

 などと書く必要はない。むしろ、どんどん「つまらない」と書いて頂きたい。そのほうが、読み手としては選別する基準ができて便利だ。

 本の発行点数は1年で7万冊程度だが、毎日ネット上に生産されるブログの数は果たしてその何倍あるだろう。読者としては、その中から「自分の感覚に沿う/沿わない」ブロガーを見つけるためには、なるべくブログのエッジを立ててほしい。

 ありていにいえば、僕は『Perfumeが嫌い』と書いてあるブログがあれば、速攻で巡回先から外すのである(笑)。

 また、「書き手」としては、こちらの方の論理も参考になる。

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20080325/p1
>僕は、個人サイトだからこそ、誰のためにでもなく、過去の、そして未来の自分のために「つまらなかった」って書く意味があると思うんです。「つまらない」って感想そのものはつまらなくても、それを「つまらないと感じたときの自分」は、けっしてつまらない存在ではないですよ。

 同意。「その時点の自分が何を好き/嫌いか」を書き留める行為には、必ず意味がある。脳の中身を書くことによって取り出し、第三者的に客観視することで得ることは多い。それが好悪の感情ならなおさら。「なんとなく嫌い」だとしても、それを書くことによって自分が「なんとなく嫌いなだけ」と気付くキッカケになるかもしれない。「なんとなく嫌っているが、実は食わず嫌いかもしれない」と気付くこともある“かも”しれない。

 また、時間を置いて読み返すことで、「当時の自分は、どうでもいいことにこだわっていたのだ」と気付けるかもしれない。それは、少なくとも書き手にとっては大きな発見になり、有意義なこと。そう感じる。

 そうした書き込みは読者にとって無益か? といえば、僕の感想は最初に書いたとおり。