創造=既存のアイデアの組み合わせ

 「創造=既存のアイデアの組み合わせ」

 ってのは、常識だと思ってるんですが、違うんでしょうか。誰がっつーわけではないですが、「創造とは無から有を作り出すことである」という文章をどっかで読んで、「プギャー(AA略)」になったのでw

 いや、だってそうでしょう? 歴史上、人間がただの一回でも「無から有」を作り出したことがありますか。農業? すべて種がいりますし、水も空気も肥料もぜんぶ自然界から取ってこないといけない。音楽? 絵画? 建築? スポーツ? なんでもいいですが、「無から有」の例なんて絶無です。
 例えばサッカーでいう「創造」を考えてみると。まずもってそれは「プレー」に限定されます。「創造的な選手だ」と言われるとき、サッカーボールや芝生、ゴールポストなどを「無」から作りだした選手が挙げられた例を僕は知らない。

 さらにその「創造」性は、「手を使っちゃダメ」及び「オフサイド」ルールの下にあります。たまに「神の手」みたいなのもあるけど(笑)、基本的に「創造的なプレー」というのはノールックパスやヒール、スルー、ダイレクトパス、シュートだったりと、「それ自体は既存の」「ルールに則った」ワザでしかないわけです。

 もちろん、その技術を習得していること自体はすごいこと。しかし、どこが創造的なのかというと、煎じ詰めればタイミングでしかない。「そのタイミングでそれかよ!」と意表を突くから、DFもGKも反応できないし、観客も唖然とした後「すげえええ」となる。ただ、これにしても無数の「既存のワザ」から一つを選び、「意表を突くタイミング(≒時間軸における組み合わせ)」で出している「だけ」です。「無」から作り出した」わけではない。

 絵画だってそう。僕の好きな画でいうと『ナポレオン戴冠』とかボッティチェッリ『春』、あるいはレンブラント『夜警』などがありますが、画なんて油絵の具の組み合わせでしかない。彼ら巨匠が油絵の具やカンヴァスらを「無」から作り出したわけではない。油絵の質感を、既存の道具を組み合わせ、どういうモチーフでどういう風に見せるか、どういう作風で誰を参照にし、そこを踏まえてどういう完成図を描くのか、というところに「創造性」があるわけです。

 建築だって。広島でいうと現代美術館などを設計した黒川紀章が創造的なのは「コンセプト発案能力」「空間把握能力」「空間認知能力」「デザイン力」などであって、コンクリなどの材料を「無」から調達したわけではない。デザインの材料は既存の、しかし無数のアイデアからの組み合わせで、そこを建築工学というルールに則って作った結果「創造的」な仕事ができたのだと思います。

 なんでこんなことを書いたかっつーと。まあこれも「誰か1人に伝わるといいな」と思ってるんですが、

 自分には想像力が足りない! 創造性がない!

 と思ってる人の大半は、「材料不足」なのではないかと思っているからです。「材料」とは「既存のアイデア」。つまるところ「知恵」と変換できる。

 先人がすでに通ってきた道、そこには無数の失敗事例とほんの少しの成功事例があって、世の中のものは大体がそれらを踏まえて作られている(まったく踏まえていないものも多々あるが、それらはだいたい失敗している)。決して無から作られたわけではない。そこを踏まえていれば、「自分に想像力がない」なんて思い悩むことはない。実際は、単なる勉強不足であることがほとんどなのだから。

 最後に、黒澤明の「映画を作るうえで欠かせないこと」についての発言を紹介します。

 黒澤明「君ね、食わなきゃ、出せないよ?」

 ここで言う「食う」は良質な文学作品、「出す」は映画というアウトプットです。良質なインプットなしに良質なアウトプットは不可能、ということを、黒澤明監督は明言しています。

 世の中の「想像力不足」でお悩みの方、安心してください。あなたに足りないのは想像力ではなく、単なる蓄積なのだから。想像力を伸ばすのは大変ですが、蓄積は積み重ねれば勝手に身につきます。安心して、蓄積にまい進してください。