ルールを神聖視するな

 イエモッツがなぜイエモッツなのかといえば、「判定が妥当か否か」というよりは、「試合の演出を考えているか否か」という、いわば“KY”的な文脈であることではないか、と思います。

 ビデオを見返す気もないので確認はしませんが、例えば岩政が木寺の手に収まっていたボールをひざで奪いにいったプレー(2枚目の警告につながった)は、スローで見た限り身体への接触はないものの、「ファウルを取られかねない」プレーでもある。実際、広島の選手のアピールを見る限り、彼らは「岩政が手でボールをはたき落とした」と見えていたように感じました。岩政はすでにあの時点で1枚警告を受けており、「おとなしくしておく」ほうがよかった。そういった意味で、あの警告は完全なる誤審とはいえない。同様に、ハンジェに出した2枚目の警告も、ファウルでありイエローカードに相当「しないとはいえない」プレーだったと思います。だから、こちらも「完全なる誤審」とはいえないかもしれない。

 というより、昨日の家本氏のジャッジに関していえば、リプレーのないスタジアムレベルで見ていれば首を傾げざるをえないものが多々あったものの、「誤審か否か」であればそれほど間違ってはいなかったように思います。

 が。はっきりいって問題は「誤審かどうか」ではない。むしろ、「正当な判定ならすべてが許される」という、家本氏はじめとする審判側の独善性をこそ問題にされるべきではないのか。
 端的にいえば、たった12分しか経過していないにも関わらず、さほど悪質ともいえないプレーに躊躇なくレッドカードを出すことは、明らかに試合の質を損なうわけです。同様に、ほとんど「帳尻あわせ」としかいえないような、やはりこちらも口頭注意で済ませるべきプレーに2枚目の警告を出すことも。

 J1王者にJ2チームが真っ向から挑む、という滅多にないシチュエーションの興味を損ない、バランスを欠いたものになる。それは「試合を演出する」という審判の重要な役割の放棄ではないでしょうか。

 割と以前から思っていたことですが、日本における判定の基準は「ルール神聖視」であり、「試合神聖視」でない気がしています。レスリー・モットラム氏の影響が大であると思いますが、「ルールを厳格に適用せよ」というある種性悪説に立った運用により、家本氏のような杓子定規で含蓄のカケラも感じない無味乾燥有害無益なジャッジが「妥当である」と判断されているように思います。そうでなくては、彼のようなほとんどパラノイアに近い警告乱発レフェリーはとっくに淘汰されているでしょうから。

 ルールが偉いんじゃあない。サッカーが偉い。もっといえば、「観に来るお客さんが楽しい」ことが偉い。ルールは試合を面白くするために作られたにすぎない。試合をつまらなくするルール運用なんてアリバイ仕事にすぎず、いくら「妥当な判定」だろうと「仕事として最低」と判断されるべき。そう思います。

 冗談めかして書きましたが、マジでこれではPerfumeのが面白いです。普段サッカー見ない人がこの試合見て「サッカーって面白いね」と思うでしょうか。「サッカーって、審判次第のスポーツなんだね」と思われる可能性は高いんではないでしょうか。