変化を受け入れること:駒野移籍の覚え書き

 なかなか気持ちがまとまらないが、それは「書かないから」だとも思う。なので、自分の気持ちを整理する意味も含めて書き留めておきたい。

 駒野が、移籍を決意した。恐らく、それは「広島がJ2に落ちたから」ではない。そうならば、天皇杯決勝直後の「ゼロックスは……」という発言と整合性が取れない。そうではなくて、「J1で優勝争いに関われないから」だろう。今年の成績ではなく、ここ数年のサンフレの成績と、ジュビロの来期以降の展望を天秤にかけて、「移籍」を選択したのだと思う。

 いずれにせよ、自分は駒野を責める言葉など一切持たない。ユースの頃からずっと見てきた選手だ。こういう言い方をすると年齢的には違和感があるが、「息子のような」気持ちで見てきた選手だ。息子が成長して家を出て行くときに、悪罵で追い散らす親がどこにいる?
 駒野のキャリアは、順風満帆とはほど遠い。デビューからいきなり沢田謙太郎という大きな壁と対峙し、十字じん帯断裂に加えてエコノミー症候群という大きな負傷や病気にも見舞われた。一時はサッカー選手どころか、生命の危機とさえ戦った。だが、駒野はその穏健そうな表情からは窺い知れない強い意志とプロ意識で、それらの障害をことごとく突破した。

 もはや間に合わないだろうとみられたアテネ五輪代表にギリギリで選出され、本大会では不動の右サイドハーフとしてプレー。その後、当時のジーコ監督に認められ、広島ユース出身選手として初のA代表入り。加地亮というやはり高い壁と競りながら、2006年ドイツW杯に出場を果たした。そしてドイツW杯後には当時のオシム監督に重用され、左サイドバックながらほぼすべての公式戦にフル出場した。2006年および2007年には、信憑性は定かではないが、海外のチームがオファーを検討しているという記事さえ出た。いつの間にか、駒野は「サンフレに欠かせない存在」から「日本に欠かせない存在」になってしまった。

 変化を受け入れなければならないときがある。さらなる成長のためには、それまでの殻を脱ぎ捨てる必要がある。昆虫でさえそうなのだから、サッカー選手をおいてをや。駒野はグングンと成長したが、その器たるクラブは、彼の成長速度に追いつけなかった。2005年の7位、2006年の10位、そして2007年の16位(J2降格)。2005年に限れば中断期間前に2位という成績を残したものの、安定して優勝争いに絡むには監督・選手の実力、選手層、クラブのサポート体制および経営体力いずれも欠けていた。

 それでも駒野は、当初は残留するつもりでいた。それを覆したのは、ジュビロが提示した「理想」だろう。すなわち、J1で優勝争いをすること。磐田には、広島にはない確固たる実績がある。近年は優勝争いから遠ざかり、監督人事も迷走気味ではある。しかし選手の粒は揃っており、川口能活前田遼一をはじめ代表クラスの選手も多い。ここ数年の成績も広島より良い。まだ補強は途中段階だが、仙台から萬代を完全移籍で獲得し、名波浩という精神的な中核となれるベテランも呼び戻した。ここに駒野と有力な外国籍選手を加えれば、優勝争いは現実味を帯びる。

 残念ながら、サンフレは今年J2でプレーする。駒野という選手に見合う器を、少なくとも今年のサンフレは用意できない。個人的な意見を言えば、駒野をJ2でプレーさせるのは一種の罪でさえあると思う。残念だが、「袂を分かつ時期が来た」と受け入れるしかないのだろう。

 天皇杯準優勝の成果を受けて楽観論もあるが、サンフレは決してラクには昇格できないと思う。よって、シーズンが始まれば、チームを去った選手のことまで考える余裕はなくなるだろう。だから、シーズンが始まる前の今、書いておく。


 駒野友一選手、これまでありがとう。
 君はサンフレが生んだ日本史上最高のサイドバックだ。
 君の前途に、幸おおからんことを祈る。


 蛇足ながらジュビロよ。優勝争いに絡まないと、許さんぞ。


 こうした言葉で選手を送り出せる。他チームの例を見聞きする昨今、これもある種幸せなことなのかもしれないと思いつつ。