DEATH NOTE the last name



 藤原竜也演じる夜神月/キラと、松山ケンイチ演じるL(エル)。相反する個性を持つ2人を、相反する個性のままに原作と「並び立つ」ほどに再現してみせた。両者の演技力と、ラストシーン含めたオリジナル脚本の完成度の高さにうならせられた。


※以下、猛烈な勢いでネタバレしてます。閲覧は映画を観た方のみオススメします。そうでない方は、どうぞ自己責任で(笑)。

 http://wwws.warnerbros.co.jp/deathnote/


「血」の通うオリジナルシーン


 前作を読んで「これは面白い!」と思い、原作全巻を読破してしまった。その僕にとって、「the last name」において興味があったのは「原作をどう切り取っていくのか?」というテクニカルな側面だった。


 当然ながら、映画には「尺」というものがある。12巻に及ぶ原作を忠実に再現することはできない。どうしても、どこかを削りながら、それでいて辻褄を合わせなければならない。前編では「秋野詩織(香椎由宇)」というオリジナルキャラを「夜神月の幼馴染」として登場させ、そして追い詰められた月がデスノートによって追跡者もろとも死なせる、という結末で終えた。自身の正体を守るためには幼馴染の詩織さえ手に掛ける、月の残酷なやり方を見せる。そのことで、月が徐々に「新世界の神」という名の悪魔に変わっていく姿を表現してみせた。「前後編」に分ける手法をとる上で、「月の変貌ぶり」をオリジナルキャラクターを使って印象に残す、残酷ながら巧みなやり方だったと思う。後編はどういった形で手を加えていくのか、非常に楽しみだった。


 結論から言うと、素晴らしい出来だった。まず、原作にもあった名シーンをうまく活用していること。さくらTVに夜神総一郎鹿賀丈史)が装甲車両で突っ込み「第二のキラ」メッセージ番組を止めさせるシーン、弥海砂(戸田恵理香)と夜神月の監禁シーン、「死神の目」を得た第三のキラ(ただし原作とは異なる人物)がさくらTVのニセ番組に引っかかるシーンなど、見所といえる場面をきちんと残している。


 それでいて、映画オリジナルのエピソードにも「原作の血」を通わせている。例えば月の妹である粧裕満島ひかり)が、TVカメラの向こう、すなわち「第ニのキラ」に向かって「人殺し!」と叫んだシーン。第二のキラである海砂は、そこで「裁き」の手を止めてしまう。そこで海砂の、家族全員を強盗犯に殺害された過去、その強盗犯が証拠不十分で釈放された無念、そしてその強盗犯がキラの「裁き」によって処刑されたことを知ったこと……などの過去がフラッシュバックされる。弥海砂が背負った深い悲しみ、キラへの異常なまでの陶酔の秘密が明かされる仕掛けになっている。


 また、原作ではLの死後に登場するニア、メロのエピソードをすべてカット。さらに、月の下僕として活躍した魅上照を、やはりキラを崇拝するニュースキャスター高田清美片瀬那奈)と統合することによって、「第三のキラ」を効率的に動かす仕組みを作った。原作の切り取り方が上手かったからこそ、原作ではもう一つのクライマックスであったニアとの駆け引きがなくとも何の喪失感も抱かなかった。

原作にない「温かみ」


 何といっても圧巻だったのは、ほぼすべてがオリジナルとなったラストシーンだろう。


 デスノートによって死んだと思われたLが生きていて、月を追い詰める。Lは、自らの本名を海砂から奪ったデスノートに書き込んでいた。「23日後に死ぬ」と添えて。それによって、月が死神レムによって殺害させようとしたワナを巧妙にかいくぐった。原作とは異なり、月は殺害しようとした父・総一郎(鹿賀丈史)、L、そして警察に取り囲まれる。なぜ総一郎は生かされたのか、そしてLは“生きている”のか? それは、めまぐるしく展開していくラストシーンで明らかにされる。


 松田竜太(鳥羽潤)によって腕時計に仕込んだノートを撃ち抜かれ、万策尽きた月は、原作どおりリュークにすがる。「ノートに、こいつら全員の名前を書き込め! もっと面白いモノを見せてやるよ!」と月。そして原作どおり、月は「オレに頼るようでは、お前もおしまいだ」とリュークに突き放され、自らの名をリュークデスノートに書き込まれることに……。心臓麻痺を起こした月は、いまわの際、「僕が作ろうとした世界は、正しかったんだ……信じてくれ」と言い残し、父・総一郎の腕の中で事切れる。


 そして23日後、Lも最期を迎える。キラ事件が解決した後に、唯一デスノートによって死ぬことになるL。役目を終えた「キラ対策本部室」で、Lは独りチョコレートをかじる。そこに現われる総一郎。「君には、すまないことをした」と総一郎。「私には家族というものを知りませんが、あなたは素晴らしい父親だと思います」とL。前後編、いや原作を通じてLが「家族」という言葉を使ったのは、このシーンのみだ。

 Lは「そろそろ時間です、独りにしてください」と言い残す。総一郎は去り際に敬礼をし、Lを見送る。やがて、チョコレートを持っていたLの左手がソファの上にダラン、とぶら下がる。力を失った指先の向こうには、Lと唯一つながりを持っていた(そして殺された)ワタリの写真が。いまわの際に、Lはワタリの写真を見ていた。どんな感情を持って眺めていたのか、それは誰にも知る術はない。


 原作では、Lは月の勝ち誇った表情を見ながら、悔恨の念を抱いて死んでいく。また月も、最期は単なる非情な殺人鬼として、暗い倉庫で息を引き取った。原作の彼らは、ともに孤独に死んでいった。


 だが映画版では、彼らは形こそ違えど、夜神総一郎に「見送られて」逝く。人間の命をオモチャにしていった月と、その月との駆け引きをゲームのように楽しんだL。ある意味で子供じみていた天才たちは、父親であり、父親のような総一郎に見送られる。そこには、原作にない「温かみ」を感じることができた。

松山ケンイチの素晴らしさ

 それにしても、Lを演じた松山ケンイチの演技力は素晴らしい。ガリガリにやせ細った身体に伸び放題の髪の毛、目じりに深いクマという姿。「間」のなく抑揚もない朴訥な喋り口、角砂糖や水あめ、キャンディなど甘いものへの異常な執着、歯をむき出しにして笑うシーン。どれも「病的」としか言いようがない。


 それでいて、強い正義感と高い能力を持ち、月と海砂を「キラだ」と確信し最後まで追い続ける執念を持ち、そのためには自らデスノートに名を書く「覚悟」さえ示す。原作とは異なり、最終的に月を「出し抜いた」Lは、極めて病的な異形でありながら、原作よりはるかに美しい「正義のあるべき姿」を示している。


 そんなLを演じきることは、もはや「適性」というレベルでは説明できない。やせ細った体躯が欠けても、朴訥な喋り口が欠けても、あの不気味な笑い方が欠けても、Lの“リアリティ”は損なわれる。最終的に、原作では表現されなかったLの本質までを演じた松山ケンイチ。彼の演技は、「Lによって選ばれた」とさえ思わせるものがあった。藤原竜也はじめどの俳優も素晴らしい演技を見せたが、原作がLという異能がなければ成立しなかったのと同様、この映画も松山ケンイチという存在がなければ成立しなかったのではないかと思う。

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