オリジナリティに対する大いなる誤解

 こちらの記事を読んで思いついたこと。

 もう何度もこのページで書いているけれども、凡人にとってのオリジナルとは「既存のアイデアの組み合わせ」以外にはありえない。

http://d.hatena.ne.jp/favre21/20080523#1211495809
彼の作品を見て、パット浮かんだのは、生まれて最初に食べたバツグンにうまい「カレーうどん」。

カレーも食べたことがある。うどんも食べたことがある。

それを一緒に食べるという組合せは経験がなかった。「カレーうどん」という組合せを初めて食した際の驚き。それぞれを単体で食べた時とは違う、組み合わせから生まれたハーモニー。

作品を見て、感じたのは、「オリジナリティとは、全く新しいものでなくても、オリジナリティがある。」ということ。彼の作品は、全くオリジナルのものもありますが、多くはコラージュを上手に使った作品。それで、天才的な「横尾忠則のオリジナルの世界」を作り上げているのです。

 まったく仰るとおりで。

 横尾忠則は凡人ではないので、まったく新しい何かを創造することはありえる。それでも、使われている素材に横尾のオリジナリティはほとんどない。絵の具、画板、アクリル板、マッキントッシュ、クアドラ900、いずれも既存のアイテムです。しかし横尾の作品群にはいずれもオリジナリティが溢れている。
 文中にあるカレーうどんの場合。カレーうどんを考案した人にオリジナリティはないのか。カツ丼はどうか。カレーライスはどうか。コロッケってそもそもフランスのクロケットとは似ても似つかない料理らしい。

 食べ物一つとっても、「まったく新しい独自のもの」なんて存在しない。しかし出来上がったものを見れば、オリジナルとしか言いようのないものだったりする。

 何が言いたいかというと。自分自身もそうだったので、「そう思ってる人が多いだろう」という前提であえて何度も書くけど、凡人におけるオリジナルとは「既存のアイデアの組み合わせ」以外にありえない、ということ。

 この考えがなぜ重要かといえば、詰め込み教育に対する捉え方の違い、ひいては学習そのものに対する誤解を解くきっかけになりうるから。「既存のアイデア」を知るためには学ぶしかないし、また既存のアイデアが組み合わさるためにはそれなりの量が必要。よって詰め込み教育じたいは別に間違っていなく、問題にすべきは「時期」のことだと気付く。

 そして「オリジナリティ=独創性=既存のアイデアの組み合わせ」と知れば、まずは先人の業績を学ばねばならないことに気付くと。

 J-POPに付随する過度の「パクリ論争」をとってみても、日本人は基本的にずーっと「日本人とは何か?」というアイデンティティの危機に陥っているのだと思う。だから、「オリジナリティ」の評価も定まっていない。

 何らかの外国の曲に似ているだけで「パクリだ!」と叫ぶ輩は、実はその指摘する曲もまたどこかからの引用だったりがあること、さらにいえばそもそも音楽そのものも言葉そのものも引用なしではありえないことを分かっていない。

 オリジナルとは、既存のアイデアの組み合わせ。ゆえに、「パクリ」といえば全部パクリ。しかし、それを言い始めればこの世にパクリでないモノのほうが少ない。あなただってオレだって、両親のDNAを受け継いだ模倣品だろ、ともいえる、極論すれば。

 何度も書くけど「オリジナル=既存のアイデアの組み合わせ」これをちゃんと認識してないと、色んな局面で、ヘンな既成概念に捉われて、本当の意味での創造性を発揮することができない。と思う。