父親たちの星条旗
注意:以下ネタバレ含みます。
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/
この映画を観ながら、ぼくはボンヤリと違う映画を思い出していた。1997年に製作された『噂の真相ワグ・ザ・ドッグ』という映画だ。ダスティン・ホフマンとロバート・デニーロという2大スターが主演したコメディタッチのそれは、興行的にはうまくいかなかったようだが、僕の印象には強く残っていた。
その映画が扱っていたのは、「戦争をでっち上げる」というテーマだった。大統領のセックススキャンダルを隠すために、メディアを総動員して「アルバニア侵攻」という架空の戦争を立ち上げ、プロモーションを行うチーム。ホフマンはそのプロデューサーとして、デニーロは謎のフィクサーとして立ち回り、見事にメディアを“洗脳”し、「戦争」を作り出し、「英雄」を仕立て上げ、紆余曲折あってその英雄は死んで「祖国に帰る」ことになる。言ってみればB級映画ともいえるそれが、なぜか脳裏を離れなかった。
『父親たちの星条旗』は、硫黄島から生還した3人の海兵隊士が、「硫黄島に星条旗を立てた」こと、正確には「旗を立てた写真に納まった」ことで英雄として迎えられる。そこで彼らは、徹底的に利用される。度重なる戦闘で戦費の尽きたアメリカの国庫を満たすため、「国債を購入せよ」というキャンペーンのために。
ヤンキースタジアムに硫黄島を模した巨大な彫像を置かれ、彼らはその上で旗を立て、スタジアムを埋め尽くした観客から万来の拍手を受ける。これらキャンペーンは、すべて「戦争」を続けるためのもの。その中で、アイラという兵士はひたすら酒に溺れ、泣き続け、吐き続ける。
「自分たちは英雄ではありません、硫黄島で戦死した彼らこそ英雄なのです」
これは、生還した3人が使った、あるいは用意されたスピーチの内容。しかしアイラがスピーチに立つ場面は描かれなかった。代わりに、彼は常にフラフラになって会場に現われ、上官の「何てざまだ、このインディアンめ」という言葉を聞くこととなる。
彼は呑まずにはおれなかった。「戦場」では何もしなかった、ただそこにいただけの自分という「現実」があり、一方で自分を英雄として扱うメディアと大勢の浮ついた人々と、そして相変わらず自分をインディオとして見下す白人の目がある。戦死した仲間の母親と面会し、ひたすら感情を露にし続けるアイラ。自分が同じ立場と想像することは難しいが、呑まずにはおれないし、泣かずにはおれないし、吐かずにはおれないだろう。
クリント・イーストウッドが伝えたかったのは、「戦場」と「戦争」のあまりにも絶望的な違い、ではないだろうか。硫黄島という「戦場」では、脳漿をぶちまけて死ぬ仲間たちと、手榴弾で木っ端微塵に自決する日本兵たちがいる。一方で彼ら3人は、「戦争」を体験することになる。それはメディアを通して作られた虚像、「戦場」とはあまりにかけ離れた、作られた「何か」。
戦場に立たないわれわれにとって、報道されないものは「現実」ではない。そして、報道されたものが「現実」とも限らない。アイラが訴えるものは、メディアでお手軽に「戦争」を擬似体験し、何かを論じた気になっているわれわれの胸に深く突き刺さってくる。
それにしても、イーストウッドはなぜこの作品を『日本側』からも描いてみる気になったのか。『父親たちの星条旗』は、それだけで十分に完結しうる傑作である。なぜ『硫黄島からの手紙』が存在するのか。そこにはどんなメッセージが隠されているのか。すぐに『硫黄島』を観て、この目で確かめてきたいと思う。
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