欠落を認識してこそ


 Jリーグが始まって13年、TVでも生でも数え切れないほどの試合を観てきた。その殆どがサンフレッチェ広島のもので、チケットを購入して観客として。残りのほんのわずかは、分不相応にも記者席に入り、仕事として「観戦」した。


 その感覚からして、素直に思うことは、「TVによる欠落感」である。いや、そもそもTV放送がこれだけ普及したからこその「欠落感」であることは承知しているし、「放映しているだけでもありがたいと思わないと」という台詞にはグウの音もでない。それでも、やはりTV映像による欠落感は拭い難いものがある。

 視覚。スタジアムでは、360度、どこを見ても構わない。ボールを追いながら逆サイドで駆け引きをするアウトサイドプレーヤーの細かいステップを見ることもできるし、ほんのわずかなオフサイドラインを巡るDFとFWの駆け引きに目を凝らすこともできる。ピッチに目をこらすと、解像度の低いTV画面では発見できない凹凸を見つけることもできるし、そこに砂が入れてあることも「視認」できたりする。その結果「この試合は浮き球が多くなりそうだ」という予測を立てることもできる。だから、「この試合の課題はグラウンダーパスが少ないことでした」というトンデモなレビューを書く危険から逃れられる(笑)。


 ピッチを見なくても構わない。ボールを追わないどころか、ピッチを観ないことすら選択できる。試合前に掲げられるたくさんのゲートフラッグに書かれている文字、ビッグユニフォーム、観客席の紫の割合と、相手チームの色の割合、そして空席の割合(笑)。


 聴覚。風向が日によって変化するのと同様、サポーターが出す音量やリズムも一定ではない。「今日は今ひとつ届いていないな」と思っても、風向きによってそう聞こえるだけかも知れないし、本当に声が出ていないのかも知れない。集音マイクが限られたTV映像では、それらの推測を立てることすら困難だ。そして、少なくとも僕が観戦したスタジアムでは、サポーターが選手入場の際に精魂込めるエールが、バカバカしい大音量スピーカーから発せられるアンセムによってかき消される。スタジアムに行くたび毎回腹を立てているのだが、TVではその時間スタメン紹介がされてたりしている。


 触覚。天候、気温、湿度、スタジアム内に吹き付ける風の強さ、風向き、それらがもたらす体感温度。それらすべてはピッチ内の事象に微妙な影響を及ぼす。「今日は90分持たないかも知れない」「うまく利用すればゴール前で(ボールが)止まるぞ」という予測を得ることもできる。


 TVではそうはいかない。「観ない」ことは本当に何も観ないことであり、「観る」ことはTVカメラによって選択された映像を見ることである。「聞く」ことも同様。選択された音声を聞くか、聞かないかだ。集音マイクはピッチに向けられ、サポーター席に置かれることはない。だからこそ「ボンッ」というキックの破裂音が聞こえるわけだが、それにしてもやはり選択されたものでしかない。そして触覚は、ない。


 TV映像で欠落するのは、スタジアムで感じる五感から得る情報の大部分。TV観戦に慣れてしまうと、その「欠落感」が「欠落」してしまう。映っていないものは「なかったこと」にされてしまう。その欠落を、欠落と思い続けるのは辛い。しかし事実として欠落しているのだから、認識し続ける必要はあるのだろう。


 何が言いたいのか。要するに、僕たちに与えられている「TV放送」という恵みは、昔を思えば僥倖であり、ありがたく頂戴すべきものなのだけど、それでも「スタジアム観戦体験の再現ではありえない」、ということ。


 にしん氏の「空をみて、考える。」というエントリーに触発されて、こういうことを考えてみた。にしん氏の当該エントリーにおける結論には同意するのだけど、

http://blog.drecom.jp/soratobi/archive/1161
「別にJを見ているからって、やっぱり「それはそれ」。
偉いわけでもないし、けれど、材料は持っている。
それを生かせるか、は、別の問題。


 という言説には、「欠落感の欠如」が蔓延しているサッカーブログ世相においては、マイナスに作用するのではないかと危惧している。


 現場の尊さを、現場におれない痛痒感を、もう少し感じてほしいと思うことが多々ある。これは自戒を込めて思う。そういう「欠落感の欠如」の根源には、現場への軽視が内在すると思うから。

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