オシムのジーコ性

http://blog.drecom.jp/soratobi/archive/1127
例えば守備に関してはジーコが宮本にまかせっきり、
みたいな話があったけれどオシムにしたって、
基本概念は「プラス1セオリー」にマンマークをかぶせるという
旧来型の様式からあまり外れていません。
しかも代表においては中盤以上ではっきりくっきりした
マンマークをとっていないので、今後問題が噴出する可能性は高い。
(中略)
問題は、くりかえしになりますが、
そのジーコ性が提示されたときにただ
反射的にそれを批判するとかではなくて、
やっぱりその作法がその試合に関してどうだったのか、
を、分析した上で為されるべきではないかなと。思います。

 ジーコが嫌いだった人しかそういうところには反応しないし、そういう人は読んでも分から(ry
 
 監督を批判するときはその方法論が的確かそうでないかを議論すべきであって、その人物が“プロ”(この定義なんなんでしょうね)だろうが“素人”(素人がジーコを素人呼ばわりしていいものか?)だろうがどうだっていい話なんですよね。
 
 例えばヨハン・クライフは1985年にアヤックス監督に就任した際は公式の指導者ライセンスを持っていなかったけど、それでも1987年にはCWC優勝に導いた。ルディ・フェラーは2000年に監督として初めてドイツ代表を率い2002年W杯準優勝、クリンスマンはそのフェラーの後を受けて2006年W杯ベスト3だ。サポートがあったとかなかったとかの違いはあっても、プロだ素人だの定義からしてみれば最高責任者である彼らは明らかにジーコと同じ“素人”に分類される。

 そんなにプロが良いんなら、お前はクレメンテみたいなガチガチのサッカーだったり、ゼーマンみたいに極端な攻撃サッカーだったりでもいいんだな、彼らはれっきとしたプロだぞと。プロじゃなきゃダメなんていってる時点で単なる権威主義。あくまで方法論によって評価されなきゃいけない。

 そして、方法論だけを見れば、ジーコのやり方は決して全否定できるほどのものではない。結果が出なかったことで批判されるのは仕方がないし、批判されるべきポイントは批判されるべきだけれども、例えば「ジーコ全否定オシム全肯定」というあり方はそのうちオシムから何らかの形で反撃を食らうでしょうね。