「アイドル」とアイドル

 久々の更新でまたコレかよ、とお思いの諸兄! サーセン(笑)。

 友人とチャットをしていて、「あの子たちは何なんだろう?」という話になった。正直、現時点ではまだよく分からない。オリコンウィークリー3位という結果は、Perfumeにとっては快挙も大快挙だし、世間的なインパクトはある。しかし同じぐらい売れている中川翔子だったり沢尻エリカだったりが、純粋に音楽的な意味でどれほど知られているかといえば、ちょっと微妙。まだまだ「世間にとってPerfumeとは何か」を語る段階ではない、と思う。

 ただ、「オレにとってPerfumeとは何か?」ということならいえる。それは、「真のアイドル」そのもの。
 チバユウスケ浅井健一カート・コバーンLUNA SEAX JAPAN中田英寿三浦知良ガブリエル・バティストゥータマジック・ジョンソンアイルトン・セナ、あるいは筒井康隆武者小路実篤司馬遼太郎ドストエフスキートルストイニーチェ。それらの対象へのまなざしと、Perfumeに向けるそれは似ている。信仰そのものではないにしても、それに近い対象の存在。

 信仰の対象としての偶像。それはすなわち、本来の意味でのアイドルそのもの。

 名前は出さないが、現在の日本で流通しているアイドルという言葉は、ほとんどが「アイドルヲタ」というニッチ層に向けてマーケティングされて作られるニッチな商品だと感じている。よって、それらのアイドルには便宜上「」をつける。先述したアイドルとは、同じ言葉を使っているだけで本質的な意味はあまりに異なるからだ。

 現在は「アイドル」が氾濫しすぎた。悪貨が良貨を駆逐するように、「アイドル」がアイドルに摩り替わってしまった。その結果、アイドルのイメージは矮小化された。男の下半身に絞ったマーケティングが展開され、普通の男女にとって「アイドルが好き」ということは、「恥ずかしい趣味を持っているヤツ」と同一視された。いつからか、「アイドルを好き」とは堂々といえない世の中になっていた。そしてそのことに、もはや何の疑問も抱かずにいた。Perfumeに出会うまでは。

 Perfumeには、マーケティングが存在しない。テクノポップを自称するが、YMO世代の取り込みを狙ったわけではない。メジャーデビューに際し取ってつけたかのように「近未来テクノポップユニット」というコンセプトがついたが、それはユニットとしての統一意志を反映したものではなかった。現在の姿は誰かがコントロールした結果ではない。

 中田ヤスタカは職人的な生真面目さで「良いポップス」を作ろうとしただけ。関和亮は曲のイメージに合わせて「かっこいいPV」を作ろうとしただけ。一方Perfumeの3人は個性を矯めろとも出せとも言われず、高いダンススキルとともに自然体の個性を保存した。普通、統一した目標がなく、こういう風に完全に分業化すればパッチワークになりがち。しかしPerfumeは、結果として非常に統一的で洗練されたイメージができている。

 それは、Perfumeに関わる人々が共通して描く「良いもの」のイメージが非常にシンクロしていたからだろう。安易に「アイドルらしさ」を追求することを是とせず、コンセプチュアルになりすぎず、もっと単純に「これってカッコいいじゃん?」といえるモノを作ろうとした。変革を意図したわけではなくとも、旧弊に与しない真摯なモノづくりを進めた。その結果埋まれたのが、現在のPerfumeである。ほとんど奇跡的なことだといっていい。

 もう一つ奇跡的なのは、Perfumeはアイドルなのに性を売り物にしていないこと。世間的に「アイドル」といえばほとんど「=水着」で、実際売れている「アイドル」のほとんどは水着を経験している。しかしPerfumeは、まあ全く皆無ではないにせよ、3人で売り出すときに水着を着用したことはない。3人に性的アピールが乏しいこともあるし、事務所がアイドル事務所ではなかったからでもあろう。しかしここも、「水着では売らない」という強い意志があったわけではなさそう。「売り上げが伸びないな、一つ水着にさせてみるか」の一声があれば、簡単に実現したはずだからだ。

 そうして現在のPerfume像は、奇跡的といっていいバランスの元に生まれた。クラブミュージックの旗手・中田ヤスタカが完璧にコントロールするサウンドと、関和亮が作り上げる映像世界。そこに3人の純朴で天然かつどことなく計算も感じさせるキャラクター、コケティッシュなダンスが加わる。「アイドル」としての性的な意味からも、擬似恋愛対象としてもある程度自由だが、過度に潔癖というわけでもない。

 誰かが手を加えれば壊れていた、実に危ういバランス。業界の慣習からすれば、いまここにあること自体が奇跡。そうした存在が、こうして目の前にある。それを思うとき、自分はある種の畏敬の念を持って接さざるをえない。レディメイドの人工物には出せない、崇高ささえ感じるのは、そうした経緯があってこそだろう。そう、極めて人工的なサウンドにビジュアルに、極めて人間的な3人のキャラクターがあるのにも関わらず、全体を見たときに感じるのはある種の神聖さなのだ。

 恐らくだが、Perfume山口百恵松田聖子キャンディーズのような存在にはならないだろう。昔のような「団欒の席」は存在せず、「一家揃って」のような前提にすべきものはない。物語は解体しつくされ、将来に向けて明るい展望も抱けない。核家族化、少子高齢化の影響をダイレクトに受け、もはや昔のような「皆のアイドル」の存在する余地はない。

 Perfumeはしかし、「それに近い存在」にはなれると思う。現存するどの「アイドル」よりも、Perfumeは昔の意味でのアイドルに近い。それは、上記のような「奇跡的な存在」だからだ。安易な追随を許さない、絶対的な意味でのアイドル。誰もがアイドルと言われれば頭に思い描き、それを「皆が思ってること」と共有できた頃のアイドルは、そうした一種の神秘性をまとっていた。

 そういう神々しささえ感じさせるPerfumeに、ある年代以上の人はかつてのアイドルの面影を見るし、「アイドル」しか経験していない若い世代はまったく新しいアイドル像を見る。そうした結果が、現在のような「Perfume現象」――「オレ、アイドルなんて聞かなかったんだけど〜〜」を枕詞にするPerfumeサポのカミングアウト――の正体ではないかと思う。

 なんでこういうことを書いたかというと、要するにSHIBUYA-AXとFC発足イベントと両方ともチケットが確保でき、頭に血が上っているからである(笑)わはははははははは